2011年01月06日

西鶴と浮世草子研究4:性愛

 古典を立てる、という言葉を教えて頂いたのは、太田善麿先生であった。戦後の古事記研究の代表選手である。辻善之助の娘婿で、若い頃はよく飲んで絡んだと言う。先生の葬儀には、上代文学研究のお歴々に混じって、辻達也氏のお顔もあった。

 古事記の研究者には何故か縁があって、先年亡くなった青木周平は遠縁にあたるし、神野志隆光氏は、違う非常勤先で奇しくもお会いし、親しく話をさせて頂いた。それぞれの世代の立場が、その研究のスタンスに大きな影響を与えることとなったことを、ナマの声として聞けた。

 古典というものは、後世の人間の読みによって生き続けるものだ、というお考えが太田先生の授業でしばしば吐露され、今も心に残っている。月並な言い方だが、古典にはそういう、ふところの深さがあるものだ。

 さて、わが江戸文学の古典と言えば、まずは西鶴だ。私は西鶴のいい読者ではないが、今号のテーマ「性愛」には興味があった。人情本論を書いてみてつくづく感じたことだが、このテーマは、普遍性と時代性の両面を持つものだからだ。西鶴の好色物もそういう意味で、古典としての可能性がある。

 時代性という意味では、巻頭の東アジアの遊女・遊廓を論じる座談会、大石あずさ・南陽子の両女性研究者の正面きった西鶴評価が面白かった。座談会は、遊女・遊廓を論じるこれからの大枠を、中国・韓国の妓女と絡めて提示していて、必読と思う。

 大石論文は、一代男が、実は男と女の物語でなく、男と男の連帯の物語だという切り口勝負。女性研究者がジェンダー論を前提にすれば、こういう対処法となるだろう。本格的な女性研究者が出てこなかったこの分野に新しい地平を開くには、もっと男の性を女の立場から客観的に論じることが望まれる。大成を期待したい。

 南論文は、溝口の西鶴関連映画から、その近代性をあぶり出したもの。戦後の西鶴の読みは、近松よりの映画作品からもあぶりだせる。ただ、残念なのは「雨月物語」と村上春樹のように、現代一線の作家が西鶴を取り上げないことだ。むしろ、そのことの意味を西鶴研究者は論じるべきではなかろうか。
posted by 雑食系 at 00:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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