2011年01月31日

吉村昭「桜田門外ノ変」

 昨年秋映画化されたので、書店で平積みされていた。その頃、かなりこちらは精神的に溜まるものがあったので、手にとった。

 普通は逆だろう。気晴らしには、幕末のテロとテロリストの物語など最も向かない。ところが、変な性分で、気晴らしに自分よりもっと鬱屈し、結果暴力を爆発させた人間の心理を追うことの方が、気晴らしになるのだ。

 自分の中にもある「毒」を、小説の中で磨いて、振り回し、相手を切ってみる、そんな「快感」である。自分でも、本当にヤバイ性分だと思う。もちろん、そういう時期にはできるだけ人に会わないようにしているのだが。。。

 物語は、テロの実行犯ながら、見届け役で、最後まで逃亡生活を続け、手記をつづった関鉄之介の「眼」を通して冷静に描かれている。この設定が効いている。歴史は当人の意図を超えて動き、事件の意味も変質してゆく。その歴史の逆説性がよく出ている。

 解説は昨日取り上げた野口武彦だが、彼もその点を評価していた。水戸は幕末、藩を挙げて「正義」を教育した。その「正義」が、幕府内の分裂を決定的にし、彼らの意図とは逆に、討幕と開国の流れをつくってゆく。

 やっぱり、テロ的暴発は、暴発した当人の意図を超えた事件となってゆくのだ。「正義」は所詮、相対的なもので、サンデル先生のように「話をしよう」でやめておくべきだ。

 それでも、「正義」をふりまわして「暴力」が振いたくたくなったらどうするか。せいぜい、店長や社長に報告するぞ、とお店にクレームをするか、どう考えても授業の邪魔をしてしゃべっている学生を10分ほど、なぜ間違っているか説明してからご退場願うか。かつてやったことといったらそれくらいだ。

 が、今は、そういう「正義」に凝り固まっている人をたしなめ、怒られそうな人に「ヤバイよ」と言ってあげることにしている。「正義」を振りかざしている自分に酔ったら、危なくてしかたない。
posted by 雑食系 at 00:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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