2011年02月12日

柄谷行人「日本近代文学の起源」

 大学院の先輩が教えてくれた本だ。当時衝撃を持って迎えられた。今では、スタンダードとなっている。

 やはり、印象に残っているのは「風景の発見」と「告白という制度」。前者で特筆すべきは、政治へ向かうリビドーが内向して「風景」の発見となったという結論。今本にまとめつつある子規論のベースになっている。ただし、子規の場合は江戸後期の漢詩からこれを引き継いでいると見た。

 後者は、武士出身者がキリスト教に向かう心理を、新たな主人を迎えることで、絶対的な「主体」の獲得へと向かったと分析する点が忘れられない。

 祖母は熱心な信者で、母の代から「神に見放された」私には大変興味深い一節だった。確かに、神が憑くとそのご本人は「正義」を振りかざしだす。私は相対的な人間なのでついていけない。というか反発を感じてきた。

 たとえば、俳人には、選者という「神」がとり憑いている。この「神」が絶対的になってくると、それを信じる本人は、「異端」を厳しく攻撃するドグマに陥る場面をよく見る。たいていそういう人は、自信がないか、多様な価値に目を向けようとしないかだ。まあ、「神」でも憑いていないと、やってられないのはわからないでもないが。

 俳句は遊びなのだから、という余裕のある人は好きだ。そういう俳人としか付き合わないことに内心決めている。いや学問的方法も「遊び」が欲しい。研究対象は文学なのだから。
posted by 雑食系 at 00:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。