2011年02月23日

小谷保太郎「子規言行録」

 日本新聞社社員小谷保太郎が、子規の死直後に編纂した追悼文集である。最近、国文学研究資料館のリプリント日本近代文学シリーズの一冊として復刊をみた。明治三十五年十一月十九日に出されているから、子規が他界して二ケ月後の挙である。

 俳句・短歌の目覚しい改良運動で生前から、子規の名が確固たるものとなりつつあったことは、虚子も「子規居士と余」で回想・証言している。「日本」に追悼文は同紙二十日の訃報を受けて、連日掲載された。これらを核として、日本全国の新聞・雑誌に掲載された追悼文を収載したのである。
『子規随筆』が刊行され、人気を博したブームを当て込んだものでもあった。

 構成から見て、本書は日本新聞社員正岡子規の追悼文集というのが、その本質的性格であったと言える。子規の文学運動は、「日本」をその基盤として展開され、子規自身、陸羯南の公私にわたる引き立てと援助で、事業を成し、盛名を得たのであるから、これは当然のことである。しかし、それだけではない。

 本書の編集方針や全体的内容から確認できるのは、「立志伝」として性格である。陸羯南はその序で、子規の仕事が俳句のみならず、その人格において立派であったことを強調する。彼の成功の主たる原因も、学問技芸よりその人格にあったとする。さらに、その子規に普通の寿命があったならば、政界へも進出していたであろうと惜しんでもいる。

 古島一雄の緒言によれば、吉川弘文館社主の吉川半七は、子規を「先生」と呼んで、「明治立志編中の人で御座います」として出版を勧めた、という。国史国文の学者文人の書を多く刊行し、国学から近代国史学・国文学への橋渡し役の一端を担い、一代で吉川弘文館を大きく育てた吉川半七らしい言葉である。立身出世の明治の世の最初のベストセラーは、『西国立志編』であった。

 リプリント版の解題で、谷川恵一は、『子規随筆』における本書の出版予告が、当初「正岡子規君遺稿」とあったものが、刊行時の広告では、「故正岡子規先生」と冒頭掲げ、文中繰り返し「先生」と呼んでいることを指摘するが、それは本書の立志伝的性格が反映したものと見てよい。また、「先生」という呼称からは、子規の晩年の随筆が、青年の苦悩・煩悶への対処法の鑑として読まれることを要請されていたことも見て取れる。

 興味深いのは、本書では子規の文業として俳句の項目が立てられず、漢詩・和歌・新体詩が掲載されている点である。それだけ当時、俳句の文学としての「身分」は高くなかったことが窺い知れる。一方、新聞各社の追悼記事は多くその俳論に触れ、追善の俳句が詠まれているのも目を引く。子規の俳句革新が急速に地方に波及していること、より大衆的なレベルでは子規の最大の仕事は、やはり俳句であったことも、自ずから見えてくる。
posted by 雑食系 at 00:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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