2011年03月01日

オング「声の文化と文字の文化」

 昨日はアカデミー賞の授賞式があり、「英国王のスピーチ」が大方の予想どおり、受賞した。吃音を克服したジョージ6世と、これを影でささえる妻エリザベスやセラピストとの秘話だが、受賞者の中で自身吃音を克服した老脚本家の、「声は届いたのです」というスピーチが心に残った。

 speechという英語には、「演説」のほかに「話し方」という意味がある。ジョージ6世は、幼少期の身体矯正や兄のいじめから、吃音になってしまった。声を失うということは人格を失ういうことなのだ。オングも言う。声は内面そのものであり、声の中心に人間の心がある。

 声は人をつなぎ、眼は見るものと見られる者を分離する。オングのようなキリスト教の聖職者であれば、説教の経験からこのことはよく自覚しえたろう。オングは印刷文化で目が優位になると個人が分離し、電子的コミュニケーションがさらに声や動画の複製で人々をつなぐと説いた。

 ただ、そう単純でもなさそうだ。アカデミーの会員は、主人公の暗さからオスカーを渡さなかったが、ライバル映画「ソーシャル・ネットワーク」は、孤独な青年の思いが、face bookを立ち上げさせ、巨大ビジネスへと拡大してゆく。複製は複製でしかない。声がいくら複製できても、内面に結び付いた声は取り戻せない。だから、face bookが拡がることは、本当の声を取り戻すことにはならないのだ。

 候補作の10編を編集したビデオは、ばらばらの映画から同じリズムの場面を見つけて貼り混ぜていた。そういう声や身体感覚へのこだわりがアカデミー会員にはあるのかもしれない。
posted by 雑食系 at 00:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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