2011年04月10日

ブルース・バートン「日本の「境界」」

 江戸時代の「異国」意識は、近現代の国境線の内と外という考え方ではとても捉えられない。
 江戸時代の対外関係は、松前(対蝦夷)・対馬(対朝鮮)・長崎(対清国・オランダ)・薩摩(対琉球)の四つの口で論じられるが、対象となる地域によって「異国」(朝鮮・清国・オランダ)と「異域」(蝦夷・琉球)と呼称が異なっていたことが報告されている。

 蝦夷と琉球は、それぞれ事情は異なるが、日本の政治・軍事的権力が及ぶ地域である一方、文化が異なり、他の日本列島のような完全な支配が及ぶ地域でもなかった。このような国内の中の「異国」とでもいうべき領域の存在を説明するには、今日我々が国境に抱いている、一次元の線的イメージを持つバウンダリーの概念を措いて、二次元の面的イメージを持つフロンティアの概念を以って接する方が分かりよい。

 前者は、国民・領土・主権を持った近代的国境線に典型的だが、求心的で内向きであり、その領土・主権、すなわち国民の共有財産である「内」とそれの及ばない「外」を明確に規定する。対する後者は、そうした領土の限界を明確に示すことなく、国家の支配力はその中心から遠ざかるに従って少しずつ弱くなる地域を指し、前者とは対照的に、遠心的で「内」と「外」を結びつける機能を持つ。
 
 たしかに、このようなフロンティア概念を以ってすれば、琉球のような、一方で島津氏の支配を被りながら、明・清に朝貢し冊封を受けていた両属的存在や、日本文化の及ばない「夷」ではあるが、かなり日本の支配力の影響が及んでいた蝦夷への理解はしやすい。しかし、問題はそれだけではない。

 本書に引用される地理学者クリストフの説によれば、両者は空間的な相違だけでなく、その国の異なった「世界観」をも背負っている、という。自然発生的に、「文明」や居住可能地域の拡張から生じた、フロンティアを四周に持つ国家は概して、普遍的国家しかありえない(あるいはあるべきでない)という理念を抱きがちであり、その意味でフロンティアは「前線」という含意を持って、拡張を志向しがちであった、という。
 
 やはり著者は「フロンティア」を基本概念に据える点でアメリカ人だなと思うが、大陸国家の構想として、中国やロシア、東アジアに進出した帝国日本も、このものさしが重要なキー・ワードになる。近代の帝国主義の概念だけで、膨張主義を理解するのは、浅薄な理解だということを、江戸の対外関係は教えてくれる。
posted by 雑食系 at 22:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

渡辺浩「東アジアの王権と思想」

 学生時代、漢文学の先生が、著者の儒学研究を紹介して、東大政治学の人はやはり優秀ですね、と短いコメントを付けくわえたのを妙に覚えている。その先生はめったに他人を褒めない人だった。

 丸山真男の最後の愛弟子で、丸山が退官後も個人授業をやって育てた人だというのは、丸山が亡くなってから出た伝記で知った。特に丸山が注意したのは、日本のことを研究するとき、日本の物の見方だけで判断しては危うい、という点だった、と言う。

 本書は、そくらく著者の仕事の中で、最も引用されることが多いものであろう。
1 江戸幕府は、なぜ中国・朝鮮のように欧米の開国要求を戦争ではねつけようとしなかったのか?
2 漢字文化圏=東アジアで学問や知識人の在り方は、なぜ日本だけが異なるのか?
3 明治維新=進歩史観は、中華思想をどう打破したのか?
 こうした本書の問の出発点はやはり丸山の注意をきちんと守ったうえで、解くべき重要な問題を設定していたわけである。

 「比較する=他者の視線を意識する」という開かれた態度において、広く「文化」というものを考え、現在の「日本」という場所に住まうわたしたち自身のあり方を問い直す。日本文化は決して他の文化や文明から孤立したものではなく、むしろその発端から現在にいたるまで他の文化との深い関わりのなかで成り立ってきたものだ。文化交流の歴史こそが日本の文化の歴史だったといってもよいのだが、わたしたちはそうした流れを「いま・ここ」で改めて学問的に実践しようとするべきなのだと教えられる。
posted by 雑食系 at 10:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月07日

白石良夫「古語の謎」

 本を出す機会が多くなると、タイトルの付け方が気になるようになる。本の顔は、書型・タイトル・著者名・出版社名・装幀だから、非常に大事だ。

 特に、タイトルは、短く本の性格と魅力を打ち出さねばならない。最近のタイトルは饒舌なものが多い。散文的と言ってもいい。その点、白石さんの命名は、戦略的だ。語らないことで、読者を誘惑するのだ。

 小説やエッセイではよくやる手だ。古くは「源氏物語」だって、象徴的な巻の名「桐壷」「若紫」「幻」等々、コードを使って読者を謎から誘惑している。これが、「桐壷に住んだ薄幸の源氏の母の物語」とか「伊勢物語の若紫の歌のような運命の垣間見」では、どうしようもない。

 本書は、副題や帯文まで語り残す部分がある。「書き替えられる読みと意味」「古語はむかしから「古語」だったわけではない」。

 正面きった本当のこの本の中身は、「古語認識の歴史」と言っていい。江戸の国学で、古語への誤読も含んだ解釋が、学問の実態と変遷のドラマを教えてくれる。本書は、実は大学初年度の国文学の講義で行われるべき内容なのだ。

 教科書に長年携わってきた、白石さんならではの視点でもある。古典とは流動的なものであり、古典を立てることが、国文学者の大きな使命であることを、先達の勇み足の数々から説いてみせた奥の深い内容なのである。
posted by 雑食系 at 11:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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