2011年05月26日

金澤裕之・矢島正浩「近世語研究のパースペクテブ」

 自分もその一部を書いた本を、この場で紹介するのは禁じ手のような気もするが、自分の担当部分は措いて、面白い本が出来たので、どうかお許し願いたい。

 私を除いて、7人の執筆者は、日本語学、それも主に江戸時代の日本語を研究している方々ではある。しかし、本書に収められた各編は、江戸時代語の研究の枠に収まりきらない、自由な発想や、他分野との連携を模索したものとなっており、いずれも久しぶりに、スリリングな知的興奮を感じることができた。

 正直、こういう論文や授業で出会っていたら、近世文学ではなく近世語研究に惹かれていったかも知れない。私が大学時代学んだ国語学者は、構造主義右派の森岡健二先生である。徹底して形式から言語の法則を捉えようとするその姿勢は、ニュートン物理学の授業のようだった。先生ご自身、研究のこういう前提を最初に話され、「なんて国語学は無味乾燥な学問だと思う人も多いでしょうね」とおっしゃっていたことが今も記憶の隅にある。

 本書の面白さは、まず言葉は使用者によってダイナミックに動くものだ、という前提から出発している点にある。そこで、文法史と言語生活という本書の二大視点が設定される。前者においては、金澤裕之氏の論が、形容詞の活用と同様の「なかった」「なく中止形」が江戸に生じる問題を、現代へと続く授受表現史の体系的流れから捉えうることを提示する。後者では、福島直恭氏が、「ナカッタ」の成立の後れの解明が、国家語としての標準語史研究の幻想から離れ、歴史的研究として前提を変えることで見えてくるとする。言語研究の前提を疑いながらすすめるこの方法こそが、スリリングなのだ。

 その他、江戸語と上方語の交流、方言研究や辞書研究、表記の問題など、文学研究・文体研究にも刺激を受ける内容が目白押しだ。近世文学の研究者にもこういう関心が拡がってほしいし、そうなる可能性をも秘めた一書だ。こういう「事件」の現場に立ち会えたことに正直感謝している。
posted by 雑食系 at 11:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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