2012年01月26日

田中康二「国学史再考」

 文学とはそもそも学問に適合するのだろうか?

 文学研究なるものを飯の種にして、四半世紀におよびつつある私自身、この問いが近年、急に我が身に迫ってきた。俳句評論を書きながら、活躍する俳人と句会を共にするようになってきたことが大きい。俳句の評論家は必ずしもよき俳人ではない。俳人から見れば、評論家は自分で詠みもせずに後付けで理論を振り回す。ひどい場合は、文化論など持ち出して、俳句の表現とアウラを丁寧に拾わない。理屈でいい文学が生まれるなら、容易いものだ。

 田中氏は、国文学の祖先を国学、特に宣長に見据えて、国学の歴史の枠組みを問なおし、その本質を「歌学び」と「道の学び」と規定する。神道系の四大人観や、戦時中の誤読と曲解は、まさに文化史的な宣長の真意から、かけはなれていったものであることが、浮かび上がる。

 ただ、私の問題意識から見れば、本書は別の刺激を与えてくれる。国学の本質が、宣長の「歌まなび」と「道の学び」にあるとすれば、また、国文学がその延長線上にあるとすれば、まさに国文学は、文学を品のいい情趣と、心の繊細さを価値の高いものとしていく、リゴリズムに陥りかねないのではないのか。宣長の歌がまさにそのようなものであったように。

 詩の微温化と大衆化は、俳句も和歌も同じ道をたどる。その意味で微温的な歌や俳句は、文学の資源でありつづけた。宣長が、長く命脈を保ったのはその点にもあったのではないのか?(日本)文学における「保守」とは何か?本書の剔出した主題は、国学・国文学の枠組みの問題であると同時に、長く日本の文学を下から支えた保守性とは何かという、より本質的なところを顕在化させる点にあると私は思う。

 研究の世界を見渡しても、和歌・国学と読本という「保守的」な文学が、いま若い研究者には人気があるように見える。西鶴・近松・秋成・蕪村・南北のような、微温とは別の方向に入った作家たちやジャンルに直接向かう研究者は少なくなってきている印象がある。それは近世文学者、学会の「保守化」=「宣長化」ではないのだろうか。

 個人的な好みで言えば、保守的な研究対象をやる人には、その保守的な価値観を相対化して論じてほしい。そうでないと、文学という、学問では収まりにくい躍動性を持つその魅力を、そぎ落とし、矮小化してしまう危険性があるからだ。田中氏の論は、そういう隘路を逃れている数少ない成果のように見えるのは僻目だろうか。
posted by 雑食系 at 19:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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