2012年09月21日

連歌俳諧研究123号

 この夏、人に勧められて俳文学会に入ったので、はじめて手元に。雲岡梓「「麗女独吟千句研究序説―荒木田麗女の連歌―」は、標題の連歌の詳細な典拠洗い出しと、和歌類書との関係を跡付け、物語作者として注目されてきた麗女が実は当代、連歌の人と自他ともに任じていた実態を、資料をきちんと整理して浮き彫りに。

 「雨月物語」の言葉の森も、俳諧の付け合いの典拠が有力であることを説いてきたこちらとしても大変有難い報告であった。雲岡さんは、宣長と麗女の論争の再評価から、伊勢における宣長評価の陰影を洗い出していく発表を、来る10月福岡大学で行われる近世文学会で発表されるとのこと。発表を聞くのが楽しみになってきた。

 福井咲久良「明治期の発句における新事物と題・季のかかわり―「俳諧開化集」を例に」は、明治の新事物を題として俳句が作られる時、既に江戸の発句にあった、季と題の分離の方法が前提になっていたことを「俳諧開化集」から明らかにする。この結論から見えてくるのは、「季題」という言葉の持つ含意、即ち、一句の中心に季(語)を据えて他の中心点を句に持ち込まない子規・虚子(特に虚子)の詠法との差異である。

 子規・虚子の中心点論は、近代俳句の根本となるものであることが、見えてくるのだ。逆に「俳諧開化集」はいくら新題を詠み込んでも、題と並び立つ季というあり方は変わらないため江戸以来の詠法を変えていなかったことが分かってくる。

 いい論文というものは、ある事実の報告によって、作家作品や文学史理解への変更、あるいは新視点を要請するものであろう。事実の報告だけで終わっている論文との差は若い研究者の場合特に重要である。事実の報告の先にあるものこそ、その研究者の伸びしろでもあるからだ。

 逆に、ベテランの場合は、その方のこれまでの研究の積み重ねの上に、新視点や新しい研究の地平を責任と勇気を以て踏み込む姿勢をこそ評価するべきだと思う。職人芸の域に達しているベテランによる事実の報告も「芸」として見ものだが、「芸」そのものではなく、我々は何が分かっていて何がわかっていないのか、あるいはそのわからないことへの踏込みとはどうありうるのか、そこが後輩には知りたいことであり、先輩はそういうことに責任を持つべきなのだろう。

 明日論文審査の会議があるので、自分のことは棚に上げ、ついこんな口幅ったい感想を書いてしまった。「連歌俳諧研究」の今号はいい論文が揃ったのだと思う。
posted by 雑食系 at 19:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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