2011年04月21日

鷹羽狩行「俳句の秘法」

 呼び名は、人間関係を象徴する。上司を「課長」と呼ぶのはいいが、恋人を「課長」と呼ぶ関係はたいてい不倫だろう。お互い「先生」を付けて呼ぶことの多い大学教師同士なのに、「学部長」とか呼ぶ先生は、かなり政治的な「演技」をしている、つまりゴマをすっている人だ。
 
 これを俳句に応用してみよう。俳号というのは、まさに俳句の世界における役割語だ。本名も一種の俳号だ。師が「清崎敏郎」と本名でいるのに、弟子の方々が本名以外を使うことは考えにくかったことだろう。「富安風生」の弟子たちは、本名以外の俳号を多く使っているはずだが、では清崎敏郎氏はなぜ本名を俳号にしたのか、これは興味深いところだ。
 
 さらにその師の高浜虚子は、もちろん本名ではない。「清」が本名だ。子規からこの号を得た。だから、虚子の弟子には、先の富安風生のほか、原石鼎・前田普羅・水原秋桜子・高野素十・中村草田男など本名でない俳号が多いと見受けられる。また、明治という時代は、俳人が本名で通すという文化はなかった。「子規」も本名ではない。俳人に限らない。夏目漱石・森鷗外・島崎藤村・樋口一葉・永井荷風。明治の文壇では、いまだ漢詩・漢文の教養が生きていたから、こういうペンネームでないと恰好がつかなかったのだろう。

 高浜年尾は本名だが、やはり子規の命名だ。正確には、「勝尾」と「年尾」の二つを子規から示され、虚子が「年尾」を選んだのだが、虚子という人は端倪すべからざる人だ。まさか「ホトトギス」が、明治三十三年の時点で、あのような大成功を収めるとは予想していなかったろうが、我が子に俳句をやる時、子規の命名は大きな箔がつく、ということくらいは考えただろう。子規も、生来の親分肌だったから、虚子から名付け親を頼まれて、機嫌は良かったはずだ。

 また、大正期の文学者は、実名風が流行でもあった。芥川龍之介・菊池寛・高村光太郎・萩原朔太郎。本名ではないが、もはや漢詩・漢文の由来をふまえた「号」の感覚は古かったのだ。新聞から漢詩の投稿欄が消えるのが、大正初年である。号には時代の感覚も反映している。

 鷹羽狩行氏の『俳句の秘法』(角川選書)では、自分の俳号が、結婚後、師山口誓子から得たものであることを明かしながら、本名の高橋行雄のままだったら、きっと今のようにはならなかった、名前の導く力は大きいと吐露されている。確かにこんな大層な俳号を名乗って、ヘボな句は出せまい。
逆に、本名を使いながら俳句の実力でその名前が輝いてくる例もあろう。

 また、名前によって、作品が引き立つケース、逆のケースもある。爪先に春風を感じるなどという女性的な句を作って、名乗ったら、顔を見ながら大笑いされたこともある。俳号も作品の一部なのだ。「芭蕉」が庵の名であることを想起すれば、なぜ『奥の細道』の冒頭に「家」の語が頻出するのか見えてくる。
posted by 雑食系 at 08:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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