2011年05月16日

桂島宣弘「思想史の十九世紀」

 副題は「「他者」としての徳川日本」。1999年刊行。コンセプトは、「近代の眼差しは、歴史の何を語り何を隠蔽してきたのか?」という帯文に集約される。出発点は、幕末・明治の「民衆」新宗教が、近代的な「民衆」(大衆)の概念ではくくれないことによる、と序文で言う。

 そこから視野は拡がり、平田派国学者の出版・読書の在り方が、当時の国学者一般とも、近代のそれとも異なる、「奇談」「実事」の話をも持ち寄ったり、占いをおこなったりするサークルあった面に注目したり、徂徠学派の「華夷」観念の解体と国学による「自己」像の生成のドラマを追ったりする。

 本書の限界は、二つ。資料収集がピンポイント過ぎて、丸山眞男・安丸良夫・子安宣邦らの敷いた思想史のストーリーに載せるような恣意性が見受けられること、今一つは、9.11、3.11を経た今日の地平から見て、こうした従来の歴史学のストーリーを解体して見せるやりかたは、古びてみえることである。

 グローバリゼーションによる「日本」そのものの矮小化を知っている我々には暢気な議論にも見えるのだ。東アジアの研究との対話や、思想史の背後にあるメディア・社会の変革への視点が足りないため、結論部が安っぽい自作自演の観念劇に見えてしまうのは残念だ。

 十九世紀の思想史に関して、何が問題として浮かんでいるのか、民衆宗教やアジア主義者の経歴については面白い報告もあり、この点を掘り下げた方が、本書が10年余りで古く感じられなくなっただろうにと悔やまれる。
posted by 雑食系 at 11:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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