2012年03月18日

池澤一郎「雅俗往還」

 副題は「近世文人の詩と絵画」。索引を合わせれば五百頁に及ぶ大冊である。氏は大田南畝の漢詩から、研究を出発したが、40代に至って、芭門俳諧・俳文の漢文脈を探り、蕪村を中心に画と詩文の交響を明らかにし、松平定信や頼山陽の文人としての意識を新たに光を当てる。

 油の乗った研究者の達成が、今こうして高度にして多様な形で我々の前に現出した。当然貴重な情報が満載されているのだが、そのいちいちを取り上げることよりも、本書に一貫している文人観、文学観、文学研究観の方を、まず取り上げるべきと感じた。豊富なデータも有難いが、本書が全体として我々に問いかけてくるものをどう受け止めるかが、本書の価値の核心にあると思うからである。

 まず、文人観・文学観は、表現と心性の「雅」の問題と言い換えることもできようか。あとがきにもある通り、漢詩は表現と心性に「雅」を求めるべきであるが、言い古された「雅」の表現の型だけを踏襲すれば、かえって「俗」に堕ちる。それだけ雅俗は、美意識において相対的な規範だという見方に、全く同感。この姿勢が著者にあるからこそ、各文人に対する腑分けが、手の内を明かすといったレベルにとどまらず、文人の内面に切り込んで面白いのである。

 建前では文学に強く倫理性を求める松平定信の、拭いようもない風流への志向や、その定信への手紙などから頼山陽の徹底した自由への志向と反権力的な姿勢を読み取ることができたのも、こういう文人観があってのことであろう。

 文学研究観は、蕪村の題画文学研究に最も集約されて光輝を放っている。近代以降の制度としての文学研究と美術研究の住み分けや、そのことによって文学研究には漢文世界を等閑するひずみが生じ、美術研究では俳画や詩意画を相手にしてこなった偏向が生まれたことを徹底して批判する視線である。氏の対象としている世界を分断してしまったのが、近代の学問的編成なのだと言い換えてもよい。

 逆に言えば、氏の切り開いた方法に従えば、江戸文芸研究にはまだまだ沃野があることが実践されているのである。氏が早稲田での研究会を通して、有為な研究者を育成し、彼らから慕われてもいることを仄聞してきたが、本書を読めばそれも納得できる。

 近年、近世文学研究にも国際化・学際化の波が押し寄せていることは事実である。本家の中国思想・文学研究からして、訓読を排して中国語として読む方法が流行している、とも聞く。そういう声は、我が学会の「国際派」の研究者の中からも聞こえてこなくはない。

 だからこそ、池澤氏の今回の仕事のような、近世文学研究がこれまで育ててきた良質な部分を守りながら、国際的に伝えてゆくことも非常に大切だと実感する。でなければ、我々は今まで何をやってきたのだということになってしまうし、これまでの良質な成果を薄めて伝えるだけならば、極論すれば、誰がやってもいいようなものになってしまいかねないからである。

 今の私の関心から言えば、かつて子規が、俳句の守りべき部分を残し、翻って他を徹底して変革した例が浮かんでくる。豊富なデータの提示を踏まえながら、文人の世界がなぜ魅力的なのかを説く指針として、私は本書の姿勢・思想を受けとったことを書きとめておきたい。
posted by 雑食系 at 12:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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