2012年03月24日

中野剛志「日本思想史新論」

 「先にやられてしまった」と感じる本に出合うことが稀にある。しかし、本書の場合、読了後「悔しさ」は残らない。むしろ、ある種の「爽やかさ」が残る。

 明治維新を単なる近代化=欧米化と捉えてしまったら、なぜアジアで唯一と言っていい独立を確立できたのか、は説明できない。日本の側にも、近代化を受け取りつつ。独立自尊の精神を持っていた広義の意味での「思想」がかなり広くあったはずである。

 多くの日本思想史家がこの難問に取り組んできたが、本書はそこに「新風」を吹き込もうとしたものである。著者の見るところ、それは理想に現実を当てはめていこうという「合理主義」ではなく、日常の実践から着実に改革をし、守るべき伝統は守る「保守主義」にあった。本書の副題が「プラグマティズムからナショナリズムへ」となっているのはそういうわけである。

 この観点から、日本独自の実学的儒学を生んだ、伊藤仁斎と荻生徂徠をとりあげ、仁斎の意外なナショナリストの側面や、徂徠の武士土着論の意外な先見性を論じる。

 ただし、これは前段で、本書の眼目は、実学的思考の系譜を確認しながら、幕末過剰な排外主義者とみなされる水戸の会沢正志斎と、過剰な自由平等主義者で開国思想の代表に位置づけられがちな福沢諭吉が、実はそういう実学の現実的志向と健全な保守主義という点で同じ地平にあったことを論じる点にある。

 最近の日本思想史の研究では、そういう見方は徐々に出されてきていたが、著者は経済思想が専門であるにもかかわらず、思想史研究の最新の動向に目配りしながら、鮮やかにその思想史的見取り図を描き直してみせたのである。

 著者の立場から見れば、丸山真男や子安宣邦のような「戦後民主主義」の立場からの、会沢と福沢への「誤解」あるいは「意図的曲解」は、維新と戦後の「開国」を理想化する「戦後民主主義」の誤りであることになる。

 読み終わって気付いたことは、著者が象牙の塔にこもり現実を見ず理想化する学者の姿勢に一貫して批判的であることだ、なるほど著者は、もともと通産官僚であり、そこから過剰な経済の自由主義の誤謬を感じて保守派経済思想の論客となった経歴の持ち主だった。

 おそらく、本書の思い切った議論には専門家から、修正・反論もあるだろう。しかし、私にとっては、大筋論者の視点に賛成できればそれでよい本だと思っている。「新書」という器はそういうものだろう。国のことを心配し、議論する全ての人に参照されればそれでよい。そういう意味で教え子や若い友人に紹介したい。

 むしろ、私のように、江戸を専門としている人間から見れば、著者が指摘していない、実学の背景にある武士的思考が、中国・朝鮮の官僚的思考と異なる点を研究するべきだと改めて感じさせられた。読後の「爽やかさ」はそれによる。健全な保守思想は、俳句の伝統を守りつつ、革新していった子規・虚子らにも通じる。子規・虚子の出発は、そういう保守派の言論雑誌を舞台にしていた。これもまた今の私の課題である。


posted by 雑食系 at 12:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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