2012年05月05日

和漢の位相

 標題は近世文学全般にわたる重要なテーマである。特に表現と典拠が主題にかかわるものである場合、作品読解の鍵となる。たまたま、この春頂いた若手の論文にも、そういう問題を考えさせてくれる力作があった。

 村谷佳奈氏「「海賊」の典拠と主題」(「金沢国語国文」37)は、「春雨物語」「海賊」の基本設定に「漁父辞」があったこと論証する。「古文真宝」の諸本にも目配りしつつの論の運びは、安心して見ていられる。林望「書誌学の回廊」にはもっとマニアックな諸本の問題が展開されているので是非参照はしてほしいが、「諸儒箋解本」に焦点を当てているから、問題はない。よって、この論は「海賊」研究に新たな展開をもたらす画期的な報告となった。

 ただし、飯倉洋一さんも指摘しているように(http://bokyakusanjin.seesaa.net/)、主題論には問題も残る。冊子本に明記されていた「漁父辞」の措辞が富岡本・文化5年本で消えた理由を、典拠の「隠蔽」と考えてよいものだろうか。発想が「漁父辞」だったとしても、後の写本では、そういう典拠に拠った構想自体が退いてしまった可能性はないか。典拠発見に引かれる気持ちはよくわかるが、なお慎重な検討を望みたい。

 主題についても、大きく時勢に不満を持つ論議という大枠が「漁父辞」に拠っていたとして、秋成による編集・改変は、それが都に戻れる・戻れないといったレベルの問題のみに留まるものだろうか。海賊の議論の中身と絡めて論ずれば、より光った論となっただろうだけに惜しまれる。

 学部生の論文に、30年も秋成研究をやってきた大人たちが、本気取り上げているのだから、もう十分レベルには達している。村谷氏には、池澤一郎氏が最近「江戸の文学史と思想史」や「雅俗往還」で展開している、近世文学にとって「和漢とは何か」という広い問題意識を頭に置きながら、本格的「海賊」論に挑戦されることを望む。

 陳可冉氏「芭蕉における「本朝一人一首」に受容」(「総研大文化科学研究」8)にも、同様のことが言える。氏の典拠指摘の位相は、表現・結構レベルに留まる浅いものなのか、芭蕉の詩の本質にかかわる深い問題なのかが見えてこない。

 天気がいいので、自転車で都立中央図書館に行き、当りをつけていた西鶴作の漢文・謡曲典拠を、板本によりながら確認していくうち、それは表現・結構に留まらない本質的な意義があるのではないかと考えつつ、また自転車で家路についたので、ついこんな感想となった。
posted by 雑食系 at 20:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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