2013年02月16日

飯倉洋一「上田秋成 絆としての文芸」

 すっかり更新をさぼっていた。年末から執筆ラッシュと雑誌のプロデュースの仕事が集中してしまったことが一番大きい。また、じっくり読まないと、とても上っ面だけを論じるだけでは済まされない本が幾つか出たこともある。今日ようやく一日をこの本だけに費やして精読した。

 上田秋成は、小説の名作「雨月物語」の作者として脚光を浴び、その特異な生い立ちと難しい性格に焦点を当てて紹介されることが多い。それは秋成の文業といえばまず「雨月物語」が評価されているからだが、それは近代のものさしから見た秋成とその文学への評価に過ぎず、文人・歌人・学者として、多様な才能と交流をした結果生まれた彼の大半の文業を捨てしまうことになる。

 飯倉さんの問題意識はここに集約され、できるだけ秋成の文業の現場とそこ痕跡を丁寧に拾いながら紹介し、「雨月物語」や「春雨物語」についても踏み込んだ解釈をされている。才能のある人間とはどういう人間か。それは、その才能の輝きが同時代の才能や理解者をも引きつける存在のことを言うと、私は思う。そういう意味で本書は、秋成の才能の輝きを発掘する重要な仕事だと思う。秋成についての本は多いが、こういう切り口はありそうで、なかったのである。

 飯倉さんの方法は着実で、交流を示すモノと文章の解説に多くを費やされている。そこからは、秋成のどういう才能の輝きが人々を引きつけたのかがもっと突っ込んで考えられるべきだろう。もちろんそのための重要な視角も提出されている。「和歌」である。和歌こそは、歌会、筆写、奉納という「絆」の論理を核とした文芸である。秋成の歌がどうしてそこまで耀きを放ったのか。これは我々に残された課題なのだと、改めて実感できた。「春雨物語」各編も、かなり歌の問題から切り込む視角がまだまだあるのだ、というのが、校注や研究会を通しての実感なのである。

 最後に置かれた「菊花の約」論は出色である。尼子経久正直説がどこまで拡がっていたかは留保したいが、左門の逐電と経久の不追及というこの作品に残された謎については、飯倉さんの解釈の方向でいいのだと思った。太宰治の「走れ!メロス」の悪王の回心の結末を思い出した。

 「春雨」に関する「いつはり」論は今後の大きな課題だろう。印象だが、和歌も俳諧も、芸術上の「真」と「上手に嘘をつく」という二律背反は、重要な問題だ。大の秋成ファンだった佐藤春夫は、「いつはり」を問題視する「菊花の約」や「海賊」を愛した。秋成自身に「誠」と「いつはり」の背反が切実な問題だったとしたら、これは「春雨」だけに限らない秋成の文学を考える重要なモチーフなのかも知れない。秋成が生涯「いつはり」を伴う「文」にかかわりながら、真面目に「いつはり」の罪を意識する心性を持っていたとしたら。。。こんな今後の秋成論のヒントをいっぱい孕んでいる本書は、しかし一般向けにも読めるよう工夫が凝らされている、信頼できるナビゲーターでもあるのだ。
posted by 雑食系 at 21:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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